広報誌「真金倶楽部(まかねくらぶ)」 「まかねふく」は「吉備」の枕詞です。 |
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第4号の真金倶楽部をお届けします。さて、今回は一体どんな質問でしょうか。 |
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へぇー、いろいろと多趣味な人だったんですね。それではもう少し詳しく見てみましょう。 ≪来日以前≫ 明治元年(1868)12月4日にガントレットは生まれました。作曲家のモンク(William Henry Monk)やガントレット(Henry John Gauntlett)を親戚にもつなど、音楽との縁が深い家系でした。そして次男坊としての気楽さからか、興味は音楽だけにとどまらず建築や測量、電気や美術を学んだりもしました。 20歳の頃、両親の反対を振り切り渡米。その後カナダへ渡り、教会ボランティアの一員として来日。その背景には、生来の好奇心とまだ見ぬ日本への興味が影響していたようです。 ≪ガントレットとエスペラント≫ ガントレットは明治31年(1898)に婦人運動家として知られる山田恒と結婚します(日本での正式な法的国際結婚の第1号)。 明治33年(1900)に開校したばかりの岡山第六高等学校へ英語・ラテン語の教師として赴任してきていたガントレットは、金沢第四高等学校最初の英語教師でもあったマッケンジー(Daniel R. McKenzie)からエスペラントを紹介されます。 エスペラントに興味を持ち短期間のうちにマスターしたガントレットは、エスペラントの家庭講習会や通信教授を行いました。主な受講者には妻の恒、恒の弟である山田耕筰(音楽家)、上代淑(山陽高等女学校校長)、社会主義者の大杉栄、山川均などの名が挙げられます。 このようにして、ガントレットの活動により岡山は日本でのエスペラント普及の先進地となりました。 ≪ガントレットと山田耕筰≫ ガントレット夫婦の住む岡山に、15歳の山田耕筰がやってきたのは明治34年(1901)のことです。理由は、体の弱かった耕筰の健康を願う恒の考えと、音楽に興味を持つ耕筰を指導してあげようというガントレットの好意からだったようです。 耕筰が岡山で過ごしたのは東京音楽学校入学までの数年間でした。しかし、この間ガントレットは耕筰にオルガン、山登り、語学、英習字、ピンポンと実に多くのことを教えました。ガントレットは、音楽的才能のある耕筰を実の弟以上にかわいがったのではないでしょうか。 ≪ガントレットと秋芳洞≫ イギリスの地理学会の会員でもあったガントレットは、山口高等商業学校に赴任中、秋芳洞の調査を依頼されます。 当時、秋芳洞内の様子はあまり知られていませんでしたが、ガントレットは生徒や新聞記者を伴って探検に入ります。その天国とも地獄とも言えない洞内の様子に感動したのでしょうか、探検のすえ再び入口に戻ると、恒に宛てて「ヂゴクカラブジモドツタ」と電報を打ったエピソードも残っています。 ガントレットは秋吉台周辺の洞窟も探検し、探検談を地元新聞に寄せたり、イギリスの学会誌に秋芳洞を紹介したりして、「秋芳洞開発の父」と呼ばれるようになりました。
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